マリー・アントワネットといえば、漫画「ベルサイユのばら」でも有名ですね。18世紀のフランス民衆からは浪費家の烙印を押されたマリーですが、その人生は波乱に満ちたものでした。マリーが購入したのではという疑惑のネックレスがフランス革命の一因でもあったとされていますが、それはどんなネックレスだったのでしょう。
マリーの人生と、疑惑のネックレスについて調べてみました。

ファッションリーダーのマリー

ご存知の方も多いと思いますが、マリー・アントワネットは1755年11月2日にウィーンでオーストリアの女公女マリア・テレジアの十一女として生を受けました。マリア・テレジアの外交政策の一環として、14歳のマリーはフランス国王ルイ15世の孫、のちのルイ16世と政略結婚をします。
当時のフランスはロココという装飾的な宮廷文化が花開いていましたが、若く快活なマリーはすぐにその流行の中心となります。その影響はヨーロッパ全土に渡ったといわれています。
1774年にルイ15世が亡くなり、ルイ16世が国王となります。そしてマリーは王妃となりました。
若い子がファッションにうつつをぬかすのはいつの時代も同じで、マリーも王妃となったころファッションの虜でした。
マリーと共に宮廷のファッションを牽引したのはローズ・ベルタンという帽子デザイナーです。
マリーが旅行した時に知り合ったローズ・ベルタンと王妃の私室でこもり、新しいドレスやヘアスタイルの流行を作り出していきました。ベルタンは布地の見本、リボンなどを抱え、ヴェルサイユに参じたとのことですが、これこそ現在のオートクチュールのはじまりでした。
ベルタンは第三身分といって、貴族よりも低い階級でしたが、マリーはベルタンに強く影響され、髪を高くアップにし、ドレスは胸もとを広く開け、ウエストをぐっと絞り、パニエを大きくふくらませるスタイルを大流行させました。
当時の民衆にとっては浪費家の王妃など迷惑千万ですが、どんな時代でも、資金力のあるところで文化は栄えるものです。ルネサンスしかり、フランドル絵画しかり。現在フランスがファション大国となっているルーツはマリーにあるともいえるでしょう。
身長154cm、ウエスト58cm、バスト109cmと、当時のモードでは理想的な体型のマリーがドレスを着れば非常に栄え、まさに時代のアイコンでした。
バラ、リボン、フリル、刺繍。女性にとってたまらないラブリーなアイテムですが、これらのモチーフがデコレーションされた女性らしいデザインがロココの特徴でもありました。
マリーの浪費の原因として、オーストリア宮廷の自由な雰囲気と違って、フランス宮廷はさまざまなしきたりに縛られ、その窮屈さや祖国から離れている孤独、子供に恵まれなかったことで、ファッションや賭け事、芝居や仮面舞踏会に夢中になったとされています。

「首飾り事件」の真相

浪費家のマリーへ民衆の不満がたまっていったころ、1778年に待望の子供が誕生します。子供が生まれてからは、心の平安を求めるようになり、賭博からは遠のきました。そしてプチ・トリノアン宮殿という田舎風の屋敷に入り浸り、家畜を眺めて過ごしたといいます。
しかし一方で、スウェーデンの貴族、アクセル・フォン・フェルセン伯爵と深い仲になっていたとされ、その関係から一部の貴族や民衆から反発されました。「ベルサイユのばら」を読んだ方なら、このころの道ならぬ恋をした王妃マリーの心情に同情することでしょう。
そして、「首飾り事件」が起きます。1785年、マリー・アントワネットの名を騙った本人とは関係のない詐欺師集団により、マリーにすら高価すぎるといわしめた豪華な首飾りが奪われるという事件でした。元々はルイ15世が注文していた首飾りでしたが、その首飾りのデザイン画を見ても、ダイヤをふんだんに使ったロココ風の豪華なしつらえで、金500g相当の価値があったそうです。
この事件が発端となり、重税に苦しんでいたフランスの民衆が、その原因をマリーの浪費にあると考えるようになったといいます。
しかし、実際にはマリーの年間170着にもなったという衣装代は国家予算の10%にも満たなかったそうです。マリーの悪評の原因は、フランスの堅苦しく無駄の多い因習、自由を制限する事柄をマリーがあらためたことにより、それを不満に思った貴族たちが、あらぬ噂を流したことでした。

一方、ロココ風のドレスを量産し、マリーと共にそのデザインをパリに大流行させたデザイナーのベルタンですが、王妃の注文書などの証拠となる書類を革命が起こると破棄し、マリーがタンブル塔に幽閉されるまで、マリーにドレスを届け続けたとのことです。
マリー側にいるとわかれば、処刑されてもおかしくなかったのに、ベルタンはマリーに対し、商売以上に誠意があったのでしょう。
歴史上では悪者とされているベルタンですが、モード産業を組織化した功績などが現在では見直されています。

若すぎた王妃

結局、マリーは1793年、フランスの民衆により、処刑されます。しかし、マリーのフランスのファッション文化への貢献は多大なものでした。
浪費家であったがゆえ悪評のあったマリーですが、あまり物事の裏を読むことができず、子供のように無邪気であったことがマリーを窮地においやった本当の理由です。王妃になるには、若すぎたと今は言えるでしょう。
さて、「首飾り事件」では無実であったにもかかわらず、民衆から疑われたマリー。宝石には力があると昔から信じられていますが、ふんだんにダイヤを使った首飾りには常人の考えられない力があり、その力がマリーの人生を狂わせたと言えるかもしれません。しかし、その力はいい方向にも利用もできるというのが現在の考え方。力はいつも、使う者の裁量によるのです。
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