探査チームを全滅させたシベリアの厳しい気候
第二次世界大戦が始まると、ロシア(旧ソ連)はダイヤモンドに関して窮地に立たされました。オランダやイギリスから購入していたダイヤモンドが途絶えてしまったのです。
宝石用のダイヤモンドではなく、工業用のダイヤモンドが不足したのです。工業用ダイヤモンドは産業の基礎素材で、油田やトンネル掘削のドリル、精密加工のバイト、表面研磨剤などに大量に必要でした。
ロシアの地質省にとって、国内でダイヤモンドを発見することが急務となりました。多くの学者、技師が集められ、いくつもの探査隊を編成して、広いロシアの各地に派遣しました。しかし、すべての隊で有望な情報は得られませんでした。
広大なロシアの中でもシベリアには、南アフリカのダイヤモンドの地質と似ている場所がある、との指摘が1936年頃、地質学者によって指摘されていました。
そこで、再び極寒のシベリアに探査隊が派遣されました。しかし、その隊は帰路に着くことなく、寒さと飢えで全滅しました。シベリアは沼地でタイガ(針葉樹林)と呼ばれる原生林で覆われ、人を寄せ付けない極寒の未開の地でした。
女性学者を奮い立たせた赤いガーネット
ところが、1953年、若き女性地質学者・ラリサ・ポプガーエバ(ラリーサ・ポプガーエワ)の元にシベリアから赤色のガーネット(パイロープ・ガーネット)が送られて来ました。レニングラード大学を卒業したこの気鋭の学者は、赤いガーネットを見て、シベリアの地にダイヤモンドが眠っている、と確信しました。
1954年、シベリアのヤクーツク(Yakutsk)付近で、ラリサ・ポプガーエバは赤いガーネットを見つけました。そして、ついに小さな美しい八面体のダイヤモンドも発見しました。
その後、1958年頃までにはシベリアで120本ものダイヤモンド鉱床(パイプ鉱床、ダイヤモンドが多く含まれる巨大な筒状の鉱床)が発見されました。
市場に流れるロシア産のダイヤモンド
ロシアはダイヤモンドの生産を国家事業とし、多くの労働者をシベリアに動員して、開発を急ぎました。新しい町が誕生し、ダイヤモンドの生産が始まりました。
1960年頃にはロシア産のダイヤモンドがヨーロッパに流れ始めました。デビアス社にとっては大きな脅威でした。相手は共産主義国家であり、デビアス社の思い通りにならない国でした。またロシアで産出されるダイヤモンドの量も不明でした。多くが謎に包まれた状態でした。
ロシア産ダイヤモンドが市場に大量に流れたら、ダイヤモンドの価格が暴落する恐れがあります。デビアス社がロシア産ダイヤモンドを買い支えなければなりません。デビアス社は大きな危機に直面しました。その後、紆余曲折を経て、デビアス社はロシアと共存共栄の路線を選択しました。