岡本太郎は最近とみに再評価の高まっているアーティストです。生前はエキセントリックな言動をする少し変わったおじさん、というのが世間の認識でした。「芸術は爆発だ!」というセリフもかなり有名ですね。CMなどテレビへの露出も多く、キワモノのタレントだと思っていた人も少なくないようです。
しかし、太郎の作品の力強さ、色彩の鮮やかさは死後、徐々に評価され、また著作も数多くありますが、その思想に共鳴し、太郎を支持する若者が増えています。
その太郎には敏子という養女がいました。太郎を影で支え、マネージメントを一手に担っていた、実質的な妻です。
戸籍上は養女であるため、敏子が妻であることは公にはあまり知られていませんでした。
太郎はなぜ敏子と結婚しなかったのでしょうか。ふたりの愛の足跡とはどんなものだったのでしょう。

強烈な両親の影響を受けて育った太郎

岡本太郎は1911年川崎で生まれます。父は朝日新聞の風刺漫画で有名だった岡本一平で、母は作家、歌人として有名な岡本かの子です。
芸術家の両親の間で、太郎は自由に育っていきましたが、その性格形成において、母かの子の影響は甚大だったようです。太郎がまだ幼かったころ、創作に集中したかったかの子は太郎を兵児帯で柱に縛り付けたという逸話が残っています。また、若い愛人を作り、一平もそれを認めて愛人を家に住まわせました。太郎が東京美術学校(現・東京藝大)在学中に家族で欧州に渡った時にも、かの子の愛人ふたりを同行させました。また一平の方も放埓な生活をしていたとされます。
今考えてもかなり進歩的な夫婦関係だったといえますが、両親の自由な恋愛が太郎に強い影響を与えたことは確かでしょう。
太郎に対してかの子は愛情深い面もありましたが、お嬢さん育ちの世間知らずで母親らしいことはあまり得意ではなく「母親としては最低だった」と太郎はのちに語っています。
しかし、太郎がパリに残り、家族が日本に帰国してから、かの子と太郎は熱烈な愛情に満ちた手紙のやりとりをし、それは太郎を強く支えました。その手紙は太郎の出版物で読むことができます。
かの子とはそれから会うことはなく、太郎がパリにいた1935年かの子はこの世を去ります。

敏子という力強いパートナー

太郎はパリで10年間過ごしましたが、第二次世界大戦でドイツ軍のパリ侵攻をきっかけに日本に帰国します。
帰国後の1942年に召集され、中国戦線に出征しました。過酷な兵役によって太郎は、逆境こそ好機とする不屈の精神力を養ったのです。
戦争によりパリ時代の作品が消失されましたが、戦後その痛手を払拭するように、また精力的に創作します。
1948年に「夜の会」という前衛芸術について語り合う会を発足しますが、そこで敏子と出会います。敏子は出版社勤務をしていたことから、太郎の執筆物の整理などを務め、やがて秘書となります。
太郎は膨大な著作を残していますが、実のところそのほとんどは太郎が語った言葉を敏子が書物としてまとめたものです。そこから太郎と敏子の二人三脚がはじまったともいえるでしょう。
ふたりが出会ったばかりの頃の熱烈な愛の生活は敏子の小説「奇跡」から読み取ることができます。ほどなく一緒に生活をするようになったふたりですが、恋愛に対して自由であった両親の影響や、独自の思想から敏子だけの太郎になることはありませんでした。
敏子は秘書として太郎のマネージメントをするだけでなく、直接、創作へのアイドバイスもしていたようです。まさにパートナーそのものでした。
敏子と結婚せず、養女にして家族としたのはなぜなのか、いろいろ憶測されていますが、有力なのはほとんど作品を売らなかった太郎の作品をすべて相続するには、妻であるよりも養女である方が都合が良かったという説です。結果、太郎の作品は死後、散逸することなく、保護されることとなりました。
1996年、太郎は84歳でこの世を去ります。しかしその後、太郎が忘れられることなく再評価されるようになったのは敏子の尽力があったからです。
その最たるものが、現在渋谷駅の壁面を飾っている「明日の神話」の復活でしょう。
1960年後半にメキシコでホテルの壁画として制作された「明日の神話」ですが、ホテルが潰れてから、壁画が行方不明となっていました。それがメキシコの倉庫で発見され、敏子がメキシコに飛び、修復、展示までの様子が糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」で発表されたことなどで、注目されました。
日本テレビでも取り上げ、期間限定で日テレプラザで展示し、その後渋谷駅のパブリックアートとなりました。そこから太郎再評価が徐々に高まっていったのです。
敏子は太郎の秘書として、またパートナーとして、太郎の死後も精力的に活動しました。

純粋に愛を信じた関係

太郎のことが「好きで好きでしょうがなかった」と語った敏子。太郎は後年、敏子を女としては見ていなかったとされていますが、養女にしたのは敏子への感謝と愛情があったからでしょう。夫婦という関係は時として、打算が入り込むこともありますが、太郎と敏子は純粋な愛の関係だったのかもしれません。
ふたりだけの愛の秘密を胸に秘め、敏子は2005年に79歳で亡くなります。
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